抗がん剤点滴と悪夢に関しての一考察

ティーブが亡くなって数年たつ。尊敬する表現者だった。そんな彼に20代後半褒められたことは私の誇りだ。いつか共演したいと願いながらも少し違う表現方法を模索していく中で交流が少なくなり結局かなわなかった。

今日、共通の友人から彼が「抗がん剤は悪夢をみる。よのなかの人にそのことを知らせなければ…。」と語っていたときいた。たしか肺がんの治療で抗がん剤を服用していたのだ。また、別の共通の友人からは、末期はほとんど抗がん剤を服用してなかったとつたえきいた。やはり悪夢に耐えられなかったのだろう。肺がんの自覚症状はとてもつらいときく。その中で更に悪夢をみて眠れない、起きても呼吸が苦しい、想像するのもしんどくなる絶望だ。

 

抗がん剤は悪夢をみる。これは文字通り悪夢をみる。眠れない。末端が痺れる。液体を出す腺(涙腺、唾液腺)に排出痛がある。にもかかわらず感情たかぶり涙腺崩壊くしゃみ連打で唾液腺活性化鼻水垂れたら冷たく苦痛ってな具合の私の自覚症状である。

今日3回目の抗がん剤点滴を受けた。そこでお恥ずかしいことに薬剤の成分を認識した次第である。主薬を入れる前に吐き気止め薬を入れるのだけどこれ結構強めのステロイドだったんだよね。これが興奮剤的な働きをして夜通し腸が勤労化、感情が爆発(怒りはほぼなくて哀れみ、悲しみが多い)で、ここにメインが効いてくる。吐き気、筋肉痛、手足の引き攣り。いやー悪夢みないわけないわ。

幸いなことに自覚のあるがん症状は腹水だけだったのでそれを抜いてからほぼ苦しみはない。それから約5週間、腹水の補充はほぼ阻止されている。副作用はあるにしても体感できる効果(科学的に正しいかどうかは別だけど)が上回ってる認識です。

 

薬物のネガティブな働きに比較的(何と?)強いと自負してる。タバコやめたときは吸いたい気持ちと吸いたい気持ちと吸いたい気持ちがケンカし始めてイライラする自分の離脱症状を一つの薬効だと認識して楽しんだし、酒のふつか酔いなんかも本当に二度と飲みたくない、迷惑かけたくない、誰とも会いたくないなんて本気で思いながら遠くで「離脱症状離脱症状!」ってぶつぶついってる。

もっと反省しろよ。

若いころ探求したシロシビン、アグワスカ、ペヨーテ、コカ、etc  なんかでもほぼ悪魔のようなストーンばかりかましてたから最終コカの葉を噛み締めるだけのハイ人になってたわけ。

ヤシの葉を敷き詰めた天井の隙間からウナギが染み出してきて部屋中に満ち溢れて3日ほどヨダレを垂らしたり、人々のオーラがみえ、会話のキャッチボールが全て色つきのカタチあるものになり、その、まま、僕は、透明な、限りなく、、透明な、存在!になりかけてたところで呼吸停止‼︎指摘され戻ってくるまで数時間。いや、まだ戻ってないかもしれん。

 

とまあ、抗がん剤治療3クール目初日の夜はステロイドで寝れないからこうしてだらだら深夜まで書き連ねてる。

みんなありがとう!愛してるよ。おやすみなさい。

                 竹田直樹

 

時間があるから文章が進むわけではない。とはいえ余裕がなければ何もできない。

年末からバタバタした状況をまとめて公開して以降書きたいことがわらわらでてきたのは間違いないのだが、副作用が一服すると後回しにする悪い癖が頭をもたげ、うっちゃりの一手。

2回目の抗がん剤点滴を受けた直後にインフルと思われる発熱の中で書くべき文章を考えていると続く続く走馬灯となってぐるぐる回り始めてとても形にならないまま寝込む。てな感じから回復してちょこちょこ書いていきます。

93年94年95年のことなんかを思い出しながら考えてるけど、伏字と匿名とボカした事実の連続にしかならなくて苦笑してしまう。正直書けないかもしれん。

高野川の泥は臭かった。4月の夕方に入るものではない。寒くて異臭のするジーンズを引き摺るように東一条の下宿に戻って床に転げる。生協で買ってきたパイプベッドの上にはクラスメイト数人が腰掛けてすでに変形している。四畳半一間に入れるのは7人くらいだっけ?雑魚寝の間を縫って共同トイレに向かうときに床を踏み抜く。どっかから材をとってこなきゃだな。どうでもいいことばっか喋っていると2階から叩く音。音はどうでもいいけど畳の隙間から大量の煙が上がってくるのだけは勘弁してって。築100年風呂なし、天井になんか書いてあったけど思い出せない、日伊会館のほん裏にあった部屋の話。

経緯と現状報告

2022年12月9日に歯科医から処方された抗生剤を飲んで以来、腹全体の調子が悪くなった気がしたのがそもそもの発端。

調子が悪いからビオフェルミンODしたりして余計ガスが溜まり不快感が増していった。

12月16日、友人のライブが中止になったのでなんとはなしに近所の病院に行った。問診や触診でも異常はなく、気になるならCT撮るかどうか聞かれてついでに撮ることにした。

画像が上がってくると医師の顔色が変わり、翌朝胃カメラ飲むことになった。腹水で張ってることがわかったのだ。

芝居の予定があったので渋っていたが医師の迫力に負けて全てキャンセルし絶食からの初胃カメラ。なにも見つからない。センマイが食べたくなる映像である。その場で週明け火曜日の大腸カメラ予約が決まり帰宅。

月曜日勤務中の昼食抜きから夜絶食、20日は朝から2㍑もの下剤を飲み沐浴してから病院に向かう。己の肛門を初めて目視しながら未知なる小宇宙へと旅に出た。少しずつ遡っていくなかなにも異常は見当たらない。体位を仰向けに変えた辺りで医師の手が止まる。モニタに少しかわった盛り上がりがみられる。そこで数枚の写真を撮りさらなる深淵へと……。盲腸手前までたどりつき折り返す。先程留まった辺りで細胞を採取し慎重に確認しながら戻っていく。ホルモン食べたいとかいえない雰囲気の中カメラを排出した。その日の診察では結腸がんの疑いが強いとの所見を下された。次回は次週、採取した細胞と腹水の検査結果、造影剤越しのCT確認を27日にするとのこと。

年の瀬27日、仕事を15時に終われるように都合つけてもらい昼絶食でCTを撮る。それまでの内科医から外科医に代わり診断を下された。結腸線がんからの腹膜播種、余命6ヶ月。

そこまで衝撃ではなかったのが自分でも驚きだ。初診の時、全ての病状に関しての告知を了解しておいてよかったと思った。

そっから年越しはずっとゴロゴロしてた。遠くの友人たちから沢山応援が届き電話もいっぱいかかってきている。ありがとう。

年明け3日、あまりに腹水が不快なので病院に問い合わせると主治医が宿直でいるのでいつでもきていいとのこと。訪ねるとさまざまな疑問に答えもらえ安心することができたので、また、ゴロゴロする。さすがに年明け4日以降の出勤は無理な感じがしたので休むことにした。1月10日より抗がん治療を始める。点滴の間にちょくちょく主治医が現れて様子を見てくれた。いい先生だ。直後の副作用は興味深いものだ。冷感が痛感になる。少し冷えた水を触ると痛い。湿って冷えた洗濯物が凶器にかわるのだ。これにて担当家事の大半から離脱することになってしまった。トイレで手を洗うのも苦痛なのだが、そもそもそんな習慣、慣習あるのか?

13日、セカンドオピニオンを聞きにいく。腹膜切除手術の可能性を探るのが主目的だったのだが、播種が小腸周辺に多数あるのではないかとの画像所見で不可の蓋然性が高そうだ。

あけて14日腹水の不快さが限界近くなる。夜眠れないのだ。鍼灸師の友人からお灸をしてもらっても間に合わない、少ない腹腔内を胃と小腸と大腸と膀胱と肺が奪い合って夜通しおしくらまんじゅうしてるんですもの。土曜日で診察のない日だったが腹水を抜いてもらう。なぜか主治医が現れ処置をしてくれる。局所麻酔をして針を刺すと噴水みたいにでてきたので笑いそうになったが腹に針刺さったまま笑うのは無理。そのまま3.2㍑腹水を抜く。看護師がテープ固定を申し立てるも先生はそのまま手で持って20分くらい世間話をする。休みなのにきてたらしい。腹水が抜けるにしたがって指先がポカポカ暖かくなってくる。全身の血管を圧迫してたのだろう。ものすごく楽しくなってきた。年末からの絶望感の八割はたぶんこの圧迫にあったのだろう。普通に散歩にいけるし、夜眠れる。食欲ももどるし、いっぱい笑える。涙を流すことはあるけどそこまで絶望を感じない。友人たちとどれだけ話してても疲れない。

腹水抜いてから今日で1週間。今のところ少しずつ増えてるような増えてないような。緑茶をがぶ飲みしてトイレに通ってる。体重は115㌔あったのが100㌔になった。15年ぶりかな。

仕事はとりあえず3月末まで休みをとった。毎日ハンモックで毛布にくるまってぽちぽちネットをしたり、アマプラみたり、マンガ読んだりしてる。

多くのなかまたちに応援してもらって私はとても幸せに生きてると思う。本当にありがとう。

 

 

姉と話してて某巨大掲示板ネトウヨとたたかってるなら文章書けっていわれて書き始めた。うんこみたいなプラットフォームしかない中で比較的マシ?なここで思いつくままに思い出話なんかをあげていこうと思う。

竹田直樹